好きな人が死んだ。

同じ時間を生きている同世代の人だった。

今年、ネットで彼らを見つけ夢中になったが、大したお金も落とさずにファンだと言うのはおこがましいと思い、来年のドームツアーに行ってからだと、今まで、ほとんど言っていなかった。好きなら好きと言っていいのに。

彼らを知ったことが不幸かというと決してそうではないし、韓国の芸能界は怖いなと遠くから見ている自分がいたかもしれないと思うと、それこそ恐怖だ。

報せを聞いても信じられず、嘘だと、間違っていたと、情報が訂正されることを待っていた。

一度も会うことができなくていい、ただ生きてほしかった。逃げてほしかった。逃げた先が死であってほしくなかった。

彼らの作品や、彼らから貰った想いだけで私は一生生きていけるくらいだ。心は見えないけれど、彼の言動は誰の目にも、心根が人一倍優しい人に見えたはずだ。良い人でなくていい、どんなに無様で、誰に嫌われようと逃げてほしかった。

心は他の人には分かりにくいし、最初から最後まで蚊帳の外だったから、邪推なんて無粋なことだ。会ったこともないのに。

音楽を真剣にやったことがないので、このことに触れるのは益々野暮に思われるが、辛いのならば音楽から離れてほしかった。

音楽以外の何かのために生きたいと思ってほしかった。誰かと一緒に生きたいと思えることで、救われるのならば、それ以外を全て捨てていい。

全く関係のないことなのかもしれないが、これを言うことはおかしいのかもしれないが、決して自分の利益のために言うのではないので、許してほしい。韓国が兵役のない世界になってほしい。どれだけの愛国心があれば受け入れられることなのか。そもそも愛国心とは何なのか。国を愛していても、それ以上に人に対する愛があったとしたら、銃を持つことはただの苦しみでしかないのではないか。希望を失って、その果てに二年間があるとしたら、それは絶望となって命を捨てるという考えがその人自身に鮮明に迫ってくるのではないか。

若者の涙で国は生きてる。

彼の死を最初に知ったのは、彼らの曲を聴いていたときだった。ここ最近いつでも聴いていたからだ。それから頭の中では曲が流れつづけているのに、実際には怖くて音楽を流すことがまだできないでいる。

まだ、さよならは言えない。冥福も祈れない。ただ、身近にいたならば何ができただろうと思うだけだ。残念という気持ちに似ているが、それを遥かに上回っている。

彼の越えられなかった夜を越えて、私の日常は続いていて、笑ったりもできるけど、心臓が凍ったみたいだ。知り合いから、この話をされそうになると、涙を無理矢理止めなければいけない。

死にたいと思ったことはない、と自信を持って言いたいが、本当はある。自分で命をたったら、行き着くのは無でしかなく、幸せも痛みも時間も空間も何もなく、ただ無が永遠に続くだけだと聞いたことがある。または、今世で乗り越えられなかったことをまた宿題のように繰り返すだけだと。科学的でないことは百も承知だが、そういうような話を聞いて、時間も流れ、今では、そんな考えがなくなった。

どうすれば彼の死を防ぐことができたのか。

ここがたどり着くべき当然の決着だったと思うことができない。